サイト2016年4月初め頃から下記サイトに変更しまた。
奥州大崎新旧自由形 http://oosaki.main.jp/f-histfree/index.php

[ カテゴリー » 探題カルタ ]

斯波家兼の子供は5名いた?:奥州探題カルタ


大崎藩イエローページ画像 先日奥州探題カルタで下記 斯波家兼の子たち を掲載しましたが、こんな情報がありました。大崎氏始祖斯波家兼の子供は全部で5人いたらしい。それ以上何名いたかは不明ですが?
列記します 直持、兼頼、義宗、持義、将頼 と5名は判明のようです。
長男、次男は下記の記事如くと思われますが、3男以下は々だったか?
まず3男義宗ですが改名して天童義宗のようです。山形の天童氏は5代ころに後継ぎが無くこの羽州管領の斯波家から養子に行ったらしい。ということは兼頼が羽州に下向したとき一緒に行ったと思われます。
では4,5男といえば残念ながら不明ですが、一部には奥州に子孫を残した!といわれています。当時で5人は少ないような気がしますが?また姫君などはいなかったのでしょうか?
もっと読む»
長男、次男が1320年代後半の誕生とすれば、奥州に来たときは子供たちは30前で以下の子供も20代前半頃と思われますが、女子が不明なのは残念です!生年などは不明です。
戦国武将と言えば徳川さん、伊達さんも2桁の子孫を残したとか言われています。はい!
得別編1:奥州探題カルタ 斯波家兼の子たち
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.php?mode=pages&aim=5pav5rOi5a625YW844Gu5a2Q44Gf44Gh-ELink
 斯波家兼の生年  1308年 妥当と思われます
 長男直持の生年  1327年 妥当と思われます
 次男兼頼の生年  1316年と1329年の2説がありました
*****************************************************
  1・・なぜ新田を嫌うのか?Link
  2・・子供の生年が不思議?Link (済み)
  3・・1356年死亡しましたが原因は?
  4・・斯波家の名字は妙字だが?
  5・・斯波家兼の子供は5名いた?Link
*****************************************************
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.phpLink
映像アドレス
 http://fyellow.qee.jp/o-movblog/index.phpLink
 映像は映像閲覧の注意点Link を確認の上再生ボタン又はもっと読むをクリックしてください願います。
*****************************************************
奥州探題城撮りブログあしたの城? 奥州探題博物館Link
城撮り大崎市内編アルバム 城撮り大崎市外編アルバム 
大崎の旧跡アルバム 大崎の遺跡古墳等アルバムLink
独談流奥州探題カルタ 大崎の地名はどうつけられた?(投票)
大崎市古川イエローページ 奥州探題ツイッター
*****************************************************

 

— posted by 探題代行士 at 07:21 am  

斯波家の謎の謎!斯波家の名字は妙字だ:奥州探題カルタ番外編

大崎藩イエローページ画像 斯波氏が大崎と名前を変えたのは謎の1つであるが、今回は別切り口で、当時の呼び名(通称か?)から調べてみました。
 大崎詮持(3代目) 斯波氏 (この頃本拠地小野城移転か)
   満持(4代目) ?
   満詮(5代目) 大須賀様
もっと読む»
     満詮の弟 持家(高泉=高清水城主)が大崎西殿と言われていた
   持兼(6代目) 須賀様
   教兼(7代目) 大崎? (この後中新田移転か)
須賀というのは今も古川の小野にある須賀を指していると思われる。5,6代目あたりまでは通常この名称で呼称されていたと思われますが、気になるのは大崎西殿である。
満詮の弟と言うことから1400年代の前半の事と思われます。なぜ大崎西殿か?
この場合高清水城主になったから言われたのではなく、以前大崎の西にすんでいたから大崎西殿とそのまま継続して呼ばれたのではないだろうか?これだと理屈が合うかな?
つまりこの大崎とは小野近郊の呼称を指しているのではないでしょうか?
では西とはおそらく宮沢またはさらに西の名生あたりを指しているのではないでしょうか?
この解釈だと小野城辺り一帯は大崎という呼称であり、その大崎の中に須賀という地名があると解釈しました。
この解釈からすれば 室町幕府守護職家辞典で当時の本拠地あたりが大崎と呼ばれていたらしい がうなずけます。(大崎とは陸地の高陵地が平野に突き出ていること。この岬のは海の場合)また小野城周辺は沼で千枝沼あるいは大崎沼とも呼ばれていたようです。これだだんだんと大崎氏の領地全体をさすようになってきたのでしょう。
大崎が出てくるのは1400年代半ばからといわれていますが、この7代目教兼(1400年代半ばから探題職)前後から大崎を使用始めたのではないでしょうか?
斯波から変えた理由として奥の斯波氏(岩手紫波郡)と区別して名実共に奥州探題としたかったのでは。7代目頃が大崎氏のもっとも充実していたときと言われています。
不思議なことに明治になって当時大崎西といわれていた名生が大崎と地名を変えて現在までつづいています。
*****************************************************
  1・・なぜ新田を嫌うのか?Link
  2・・子供の生年が不思議?Link (済み)
  3・・1356年死亡しましたが原因は?
  4・・斯波家の名字は妙字だが?
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.phpLink
斯波氏の本拠地小野御所跡映像
 http://fyellow.qee.jp/o-movblog/index.php?UID=1323335887Link
 映像は映像閲覧の注意点Link を確認の上再生ボタン又はもっと読むをクリックしてください願います。
*****************************************************
奥州探題城撮りブログあしたの城? 奥州探題博物館Link
城撮り大崎市内編アルバム 城撮り大崎市外編アルバム 
大崎の旧跡アルバム 大崎の遺跡古墳等アルバムLink
独談流奥州探題カルタ 大崎の地名はどうつけられた?(投票)
大崎市古川イエローページ 奥州探題ツイッター

 

— posted by 探題代行士 at 07:24 am  

斯波家兼の謎の謎!なぜ死因と場所が不明なのか?:奥州探題カルタ番外編


奥州探題大崎氏の始祖と言われています斯波家兼には多くに謎があります!

斯波家兼は1356年6月13日(新暦で7月はじめか?)に無くなったと言われています。日にちまでわかっているのになぜ無くなった原因、場所などがわからないのでしょうか?当時の戦国武将であればわから無くってもさほど不思議ではないと思われますが、ちょっと気になります。
もっと読む»
 1.病気または老衰等の原因
   1356年に京都まで出かけていることから考えられないが突然死はあったとしても急になくなったとなどと残ってもいい気がしますが!
 2.突発事故あるいは暗殺等が原因
   歴史上の人物が思わぬ事故で死亡した場合時折事例等が出ますが、今回でてないことはその可能性が低いと思われますが?
 3.戦死であった
   当時御大将自らわざわざ京都まで出かけることからすれば小競り合いはあっても大戦は少なかったのでは?さらに2ヶ月後子の頼兼が羽州の最上に行っているので大戦で戦死は考えられない?また名誉の戦死ならば残ってもいいような気がしますが?
 4.当時家兼は奥州から離れて別地方に行ったので年月しか記録されない
   消去法からすれば残ってしまうが?死亡の連絡が来ても一部しか残さなかった。
 5.その他
以上からして1,2,3であれば周囲の人たちがわかり得ることで何らかの形で記録に残ってもいいと思われますが、4の場合は一部の人のみ知り得ることで記録として残る確率が低いと思われる。
となれば家兼は当時の本拠地ではなく別国でなくなったかもしれない?

そこで今までわかったことをリストにまとめてみました。
  1356
     8月頃 斯波兼頼羽州探題として下る
     6月頃 生涯を閉じる
       ? 家兼が直持と上洛し尊氏に謁見
     1月頃 斯波高経が尊氏(幕府)帰参
  1355
     6月頃 家兼に軍事督促状
     4月頃 管領としての業績を施行状に残している
  1354
   12月頃 発行文書あり
   11月頃 塩竃神社の安全祈願文書あり
      ? 鳴子葉山城で石塔氏をやぶる
      ? 街道の宿場七北田駅を定めた?(泉七北田の道路神社)
       上谷刈・野村の両村を合わせて七北田村と名付け宿駅
     9月頃 奥州管領就任(秋頃)
         細川清氏若狭守護職を願い出
当時1356年の主な動きをリストしてみました
  1356
     8月頃 斯波兼頼羽州探題として下る
     6月頃 生涯を閉じる
       ? 家兼が直持と上洛し尊氏に謁見
     1月頃 斯波高経が尊氏(幕府)帰参


  1・・なぜ新田を嫌うのか?Link
  2・・子供の生年が不思議?Link (済み)
    3・・1356年死亡しましたが原因は?
  4・・その他!
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.phpLink
*****************************************************
奥州探題城撮りブログあしたの城? 奥州探題博物館Link
城撮り大崎市内編アルバム 城撮り大崎市外編アルバム 
大崎の旧跡アルバム 大崎の遺跡古墳等アルバムLink
独談流奥州探題カルタ 大崎の地名はどうつけられた?(投票)
大崎市古川イエローページ 奥州探題ツイッター

 

— posted by 探題代行士 at 07:11 am  

斯波家兼の謎の謎!なぜ新田を嫌うのか?:奥州探題カルタ番外編


大崎藩イエローページ画像奥州探題大崎氏の始祖と言われています斯波家兼には多くに謎があります!

  1・・なぜ新田を嫌うのか?Link
  2・・子供の生年が不思議?Link (済み)
  3・・1356年死亡しましたが原因は?
  4・・その他!
もっと読む»

なぜ新田を嫌うのか?
 斯波家兼はよく新田義貞の新田を嫌って地名である新田という名前を上新田、中新田、下新田等と変えたなどと言われています?なぜ嫌うのだろうか調べてみると、1338年南朝新田義貞の軍が越前藤島城で北朝足利軍斯波高経の軍を攻撃しましたがこの時の戦で新田義貞が戦死しました。その時斯波家兼は兄高経と共に足利軍に所属していました。この時の攻防戦が壮絶だったと言われています。が、考えるに戦国時代の戦であるならば、常にかつか負けるか、あるいは生きるか死ぬかはつきまとっていたのではないでしょうか?
たしかにもう2度とこんな事はしたくないと思うことは誰でもありますが?
では家兼さんが守護職をしていた若狭地方でも新田という地名はなく、何か別な地名に変えられたのでしょうか?知りたい物ですね。それとも宮城だけなのでしょうか?
それと
 家兼の東北下向  1354年
 新田義貞戦死   1338年
つまり東北に来たのは新田義貞戦死後16年後である。こうしてみると新田義貞がよほど恐ろしかったのでしょうか??
さらに
 たとえば中新田という名は鎌倉時代頃に既に中新田郷等という名前があったからそのまま継続してきてるとも言われています。
ちょっと気になるのが大崎市古川の新井田城址である。ここの地名は大崎市古川新田字南構であるが、なぜか新井田城である?新田を にいだ と読んでるから当て字か?それともやはり新田義貞を恐れての変更か?
家兼さん、そんなにいつまでも新田義貞を恐れてはいないと思いますが?
ちなみに新田義貞氏同郷 上州 の出身で上毛カルタにもあったような気がしますが?はい。
新井田城跡アルバム
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro/index.phpLink
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.phpLink
*****************************************************
奥州探題城撮りブログあしたの城? 奥州探題博物館Link
城撮り大崎市内編アルバム 城撮り大崎市外編アルバム 
大崎の旧跡アルバム 大崎の遺跡古墳等アルバムLink
独談流奥州探題カルタ 大崎の地名はどうつけられた?(投票)
大崎市古川イエローページ 奥州探題ツイッター

 

— posted by 探題代行士 at 07:19 am  

得別編1:奥州探題カルタ 斯波家兼の子たち


大崎藩イエローページ画像前回の奥州探題カルタ うしゅう最上は大崎の分家 で下記内容を掲載しましたが、ちょっと気になるので調べてみました。
 斯波家兼の生年  1308年 妥当と思われます
 長男直持の生年  1327年 妥当と思われます
 次男兼頼の生年  1316年と1329年の2説がありました
兼頼が次男とすれば1316年は考えられません。家兼8歳の子となり、長男より年上となる。となれば1329年頃が通常的に考えられます。
もっと読む»
この頼兼、家兼が東北に下向したとき一緒に下向してきましたが、この時が東北初めてかと思ったが、さにあらず1336年頃東北の東海道(海岸沿い?)で南朝攻撃に大将として参加していたとか?7,8歳の頃となる?昔はこのくらいでも大将として祭り上げられたのでしょうか?

うしゅう最上は大崎の分家
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.php?UID=1266280812Link
 「斯波家兼は1308年の生まれ、斯波兼頼は1315年の生まれで、この調査が正しければ差が7つとなるが???ちょっと気になるのは家兼の長男といわれています直持が生まれが1327年とあるが、これだと長男次男が逆転だ!!調査に問題が有りそうかな??」

あ、そうだこれが奥州大崎の奥州探題カルタか!
 http://fyellow.2.pro.tok2.com/o-oyp/o-caruta/32tandaicultalbum/index.cgiLink
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.php?mode=pages&aim=5pav5rOi5a625YW844Gu5a2Q44Gf44Gh-ELink
 (カルタトップページのMENU部分を参照願います)
奥州探題博物館
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan3/index.phpLink
奥州探題城撮りブログ あしたの城?
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan4/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市内編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市外編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro2/index.phpLink
大崎の旧跡
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-iseki/index.phpLink
大崎の地名はどうつけられた?(投票)
 http://fyellow.2.pro.tok2.com/oosaki/oosakihan3/34-select/index.cgiLink
大崎市古川イエローページ
 http://fyellow.qee.jp/osakiblog/index.phpLink
奥州探題ツイッター
 http://twitter.com/ohshutandaiLink

 

— posted by 探題代行士 at 07:37 am  

あ、そうだこれが大崎の奥州探題:奥州探題カルタ 


大崎藩イエローページ画像奥州探題カルタも今回の あ 項目で一通り終了しました。で、今回は探題カルタが勢揃いしたスペシャル版(あ、そうだこれが奥州大崎の奥州探題カルタか!)を作成しました。最初の出だしが2010年1月頃と思われますので2年かかって何とかまとまりました?
最初の頃は何とかカルタのネタはあったのですが、進むに従ってさて今度は何かとネタ探しが多くなりました。こうしていると自分でも少しずつ勉強になったかなと思われます。
今後は少しぐらいは番外編を掲載して、新大崎カルタに挑戦してみようと思っています。
もっと読む»
あ、そうだこれが奥州大崎の奥州探題カルタか!
 http://fyellow.2.pro.tok2.com/o-oyp/o-caruta/32tandaicultalbum/index.cgiLink
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.php?UID=1266313588Link
奥州探題博物館
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan3/index.phpLink
奥州探題城撮りブログ あしたの城?
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan4/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市内編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市外編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro2/index.phpLink
大崎の旧跡
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-iseki/index.phpLink
大崎の地名はどうつけられた?(投票)
 http://fyellow.2.pro.tok2.com/oosaki/oosakihan3/34-select/index.cgiLink
大崎市古川イエローページ
 http://fyellow.qee.jp/osakiblog/index.phpLink
奥州探題ツイッター
 http://twitter.com/ohshutandaiLink

 

— posted by 探題代行士 at 07:37 am  

いっきで崩壊大崎一家:奥州探題カルタ 


大崎藩イエローページ画像 秀吉の奥州仕置きで領地が無くなった大崎義隆は上杉景勝等のすすめにより上洛し、秀吉より旧領地の一部のお墨付きを得て、京都をいいひ旅たちをしましたが、旧領で大崎一揆が勃発して帰途会津あたりで捕まり、旧領地のお墨付きが保護になり、これで完全に大崎氏は崩壊しました。旧領のお墨付きは以前の1/3前後で、一部には現黒川群あたりではなかったかとも言われています。現実になったら今の大崎市はそっちになったのでしょうか???
もっと読む»
読談流奥州探題カルタ
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-oyp/o-caruta/index.phpLink
奥州探題博物館
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan3/index.phpLink
奥州探題城撮りブログ あしたの城?
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/oosaki/oosakihan4/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市内編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro/index.phpLink
奥州大崎藩城撮り大崎市外編アルバムはこちら
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-osiro2/index.phpLink
大崎の旧跡
 http://2.pro.tok2.com/~fyellow/o-view/o-iseki/index.phpLink
大崎の地名はどうつけられた?(投票)
 http://fyellow.2.pro.tok2.com/oosaki/oosakihan3/34-select/index.cgiLink
大崎市古川イエローページ
 http://fyellow.qee.jp/osakiblog/index.phpLink
奥州探題ツイッター
 http://twitter.com/ohshutandaiLink

 

— posted by 探題代行士 at 07:38 am  

T: Y: ALL: On:
ThemeSwitch
Created in 0.0464 sec.
prev
2019.7
next
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31