サイト2016年4月初め頃から下記サイトに変更しまた。
奥州大崎新旧自由形 http://oosaki.main.jp/f-histfree/index.php

[ カテゴリー » 異説大崎地名考 ]

映像:異説大崎地名考3下総の大崎・・・・とは本当は?を追加しました

大崎藩イエローページ画像  3.下総の大崎・・・・とは本当は?
   なぜか黒川郡は 大 がつく町村が多い。大和、大衡、大郷と4つのうち3つ。と来れば大崎が黒川郡の大衡の隣であったとしても不思議ではない!
   では、奥州管領として東北に下向した家兼は黒川のどこに来たのだろう。推定するに奥大道の道沿いで多賀城に近く、大崎の河内にも近い鶴巣あたりで、近郊は大崎あるいは北目大崎と呼ばれていたところでしょう!
もっと読む»
吉田川の川沿いであり、奥大道の北の入り口の大崎であろう!一部にはここは斯波氏のいたところとまで言われていますが・・・・
   現在で言えば鶴巣下草の鶴巣中の近郊ではないだろうか?近郊には以前大崎城があったとか?
   さらにこの鶴巣下草には下草城があったようです。現在大和町の下水処理場となっていて、その建物が昔の館跡緒思わせるものです。大崎一揆の閉廷の時伊達政宗と蒲生氏郷が虚々実々として会談した白としても知られていますが・・・・・
   こうしてくると伊達記録に出てくる家氏が下総の国大崎荘をとあるのが気になりますが、通常考えて斯波家の始祖が150年以上前に下総の国大崎荘を持っていたからといって、大崎と名称を変えるだけの説得力が少ないとお思いますが・・・・
   それよりも当時の情勢を判断して決めた方が自然か?
   となれば下総の大崎・・しのうさのおおさき・・はもしかしたら しもくさのおおさき 下草の大崎 とすべきところを何らかの理由で 下総の大崎 となってしまったのではないでしょうか?つまり黒川大和の大崎は鶴巣下草にあります。
   本来ならば 家兼が下草の大崎 とすべきではなかったでしょうか?
   これで少しは異説大崎地名考になったでしょうか?
   ・・・・・?????
内容に応じてかきアルバム参照願います
大崎の城撮アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/siroato/o-osiro/index.phpLink
めざすは宝の国(@宮城大崎)大崎宝街道アルバム
 http://oosaki.main.jp/o-kaidou/index.phpLink
奥州路大崎 旧跡アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/kyuseki/o-kyuseki/index.phpLink
大崎 古墳遺跡貝塚等アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/isekinado/o-iseki2/index.phpLink
大崎検定試験
 http://oosaki.main.jp/o-kentei/index.phpLink
独談流大崎カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/oosaki/index.phpLink
読談流奥州探題カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/tandai/index.phpLink

歴史関連メニューの件
 http://oosaki.main.jp/osakiblog/index.php?mode=pages&aim=histmenuLink
【大崎イエロページ】 【大崎動画】 【大崎歴史関連】

 

— posted by 探題代行士 at 07:35 am  

映像:異説大崎地名考3下総の大崎・・・・とは本当は?を追加しました

大崎藩イエローページ画像 3.下総の大崎・・・・とは本当は?
   なぜか黒川郡は 大 がつく町村が多い。大和、大衡、大郷と4つのうち3つ。と来れば大崎が黒川郡の大衡の隣であったとしても不思議ではない!
   では、奥州管領として東北に下向した家兼は黒川のどこに来たのだろう。
もっと読む»
推定するに奥大道の道沿いで多賀城に近く、大崎の河内にも近い鶴巣あたりで、近郊は大崎あるいは北目大崎と呼ばれていたところでしょう!吉田川の川沿いであり、奥大道の北の入り口の大崎であろう!一部にはここは斯波氏のいたところとまで言われていますが・・・・
   現在で言えば鶴巣下草の鶴巣中の近郊ではないだろうか?近郊には以前大崎城があったとか?
   さらにこの鶴巣下草には下草城があったようです。現在大和町の下水処理場となっていて、その建物が昔の館跡緒思わせるものです。大崎一揆の閉廷の時伊達政宗と蒲生氏郷が虚々実々として会談した白としても知られていますが・・・・・
   こうしてくると伊達記録に出てくる家氏が下総の国大崎荘をとあるのが気になりますが、通常考えて斯波家の始祖が150年以上前に下総の国大崎荘を持っていたからといって、大崎と名称を変えるだけの説得力が少ないとお思いますが・・・・
   それよりも当時の情勢を判断して決めた方が自然か?
   となれば下総の大崎・・しのうさのおおさき・・はもしかしたら しもくさのおおさき 下草の大崎 とすべきところを何らかの理由で 下総の大崎 となってしまったのではないでしょうか?つまり黒川大和の大崎は鶴巣下草にあります。
   本来ならば 家兼が下草の大崎 とすべきではなかったでしょうか?
   これで少しは異説大崎地名考になったでしょうか?
   ・・・・・?????
内容に応じてかきアルバム参照願います
大崎の城撮アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/siroato/o-osiro/index.phpLink
めざすは宝の国(@宮城大崎)大崎宝街道アルバム
 http://oosaki.main.jp/o-kaidou/index.phpLink
奥州路大崎 旧跡アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/kyuseki/o-kyuseki/index.phpLink
大崎 古墳遺跡貝塚等アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/isekinado/o-iseki2/index.phpLink
大崎検定試験
 http://oosaki.main.jp/o-kentei/index.phpLink
独談流大崎カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/oosaki/index.phpLink
読談流奥州探題カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/tandai/index.phpLink

歴史関連メニューの件
 http://oosaki.main.jp/osakiblog/index.php?mode=pages&aim=histmenuLink
【大崎イエロページ】 【大崎動画】 【大崎歴史関連】

— posted by 探題代行士 at 09:28 am  

映像:異説大崎地名考 街道分岐の黒川郡争奪合戦が激化! 追加しました

大崎藩イエローページ画像2.街道分岐の黒川郡争奪合戦が激化!
  黒川氏の始祖は羽州探題最上直家の直系から来たとか、鎌倉府があったときの鎌倉公方足利氏末流とか、あるいは下総の千葉常胤の末流とかいろいろ説があり明確になっていません。
  一時黒川に居住した奥州管領家兼没後1391年頃また奥州管領斯波氏は黒川郡に侵攻しています。ただこのころ奥州は室町幕府でなく鎌倉府の管轄になります。
もっと読む»
  上記黒川侵攻は畠山氏の恩賞地だとして伊達、葛西氏等を通じて抗議されたようですが、力で押し切ったようです。それだけ黒川郡には愛着があったのでしょう。
  おそらくこの後羽州探題最上から氏直が黒川郡に入部して黒川氏直と名乗り、大崎市の南の固めを行ったものと思われます。(後刻伊達に従属しますが)
  この黒川郡には御所館と呼ばれている館がありました。鎌倉府奥州支配の本拠地と言われています。黒川郡は東北支配の重要な位置だったのでしょう。
  おそらく家兼が初期の管領として活躍したから是非黒川は斯波領にしたかったのではないでしょうか?この頃になると斯波氏は小野城に移行しています。(なお鎌倉府は1399年頃福島の篠川と稲村に管領が派遣され1439年頃消滅しました。)
  なぜこの黒川が重要なのでしょうか?黒川郡の大和町の町外れには奥州街道と出羽街道の分岐点があります。この奥州探題の時代は奥大道(盛岡方面)と出羽(山形)との分岐があったものと思われます。つまり黒川はまさに東北の街道のかなめをなしていたものと思われます。(添付写真参考 黒川吉岡の街道分岐点の写真)
   鎌倉府支配の時も鎌倉府庁が福島迄しか来られなかったのは斯波氏が河内近郊に居座り県南部にも目を光らせていたためとも言われています。黒川は軍事上からも重要な拠点だったのでしょう!

内容に応じてかきアルバム参照願います
大崎の城撮アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/siroato/o-osiro/index.phpLink
奥州路大崎 旧跡アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/kyuseki/o-kyuseki/index.phpLink
大崎 古墳遺跡貝塚等アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/isekinado/o-iseki2/index.phpLink
大崎検定試験
 http://oosaki.main.jp/o-kentei/index.phpLink  

歴史関連メニューの件
 http://oosaki.main.jp/osakiblog/index.php?mode=pages&aim=histmenuLink
【大崎イエロページ】 【大崎動画】 【大崎歴史関連】

 

— posted by 探題代行士 at 10:44 am  

奥州探題博物館 異説大崎地名考斯波家兼東北下向はどこ? を追加しました

大崎藩イエローページ画像 異説大崎地名考と言えばポイントは下総の大崎と黒川郡であろう。
 ここのポイントをどう考えるかがおもしろくなる。異説であるから真逆と思うようなことも発想できるのではないでしょうか?
1.斯波家兼東北下向はどこ?
   斯波家兼は奥州管領として1354年頃東北に下向してきました。余目旧記によれば3年間福島の霊山にいて、河内の師山に下向したといわれていますが、霊山は別な管領だとも言われていますし、師山着も一部はしおっている部分がないだろうか?
もっと読む»
   奥州管領として下向してきているのであるから、地元の役人などの協力なしで、管領としての役割ができるのでしょうか?そのためにはやはり多賀城に入るのが必要でなかったろうか?ところが多賀城には前の管領吉良氏が居るのでここには入れなかった可能性があります。近郊とすれば岩切、利府等がありますがここには留守氏などが居り、ここも困難、でやはり大崎の河内だろうか?ただ河内では多賀城30K前後あり当時では片道1日圏内ではないだろうか?ちょっと困難か?
   当時の奥大道と言えば多賀城、岩切、利府、鶴巣、吉岡等と通行しますが、多賀城近郊に入れないとすれば、距離的には黒川郡鶴巣、吉岡などが奥大道の北の入り口になるので有力候補になるのではないでしょうか?この黒川であれば奥大道の北の入り口であり多賀城と北の河内との中間で、このあたりを拠点としたとき、河内の武士にも協力が得られるようになったのではないでしょうか?当時河内は河内四頭とも河内五頭とも言われ一揆がくまれて一代勢力をなして、強力な奥州管領が近くに来たので、協力、さらに後になって服従するようになったのではないでしょうか?家兼にとってはこれが非常に幸いとなりました。
   一部には家兼は多賀城に下向とも、黒川郡に下向とも言われています。
   上記の内容等により家兼の下向は黒川郡内と推定したい。その後2ないし3代目の時に大崎の河内武士等の協力があって大崎の師山に本拠を構えたのではないでしょうか?

内容に応じてかきアルバム参照願います
大崎の城撮アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/siroato/o-osiro/index.phpLink
奥州路大崎 旧跡アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/kyuseki/o-kyuseki/index.phpLink
大崎 古墳遺跡貝塚等アルバム
 http://oosaki.main.jp/view/isekinado/o-iseki2/index.phpLink
大崎検定試験
 http://oosaki.main.jp/o-kentei/index.phpLink
独談流大崎カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/oosaki/index.phpLink
読談流奥州探題カルタ
 http://oosaki.main.jp/x-caruta/tandai/index.phpLink

歴史関連メニューの件
 http://oosaki.main.jp/osakiblog/index.php?mode=pages&aim=histmenuLink
【大崎イエロページ】 【大崎動画】 【大崎歴史関連】

 

— posted by 探題代行士 at 05:41 pm  

T: Y: ALL: On:
ThemeSwitch
Created in 0.3122 sec.
prev
2019.10
next
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31